心のブログ 輝きのゆりかご
「 犠 牲 」
こんにちは、かずてるです。本日のご訪問ありがとうございます。
本日は ” 犠 牲 ” と言うテーマについてお話ししようと思います。
普段わたしたちは何気なく使う表現ですが、質の異なる二つの意味があるようです。
1、天災などの災難によって命を落としてしまうこと
(例)大規模な水害が起こり多くの犠牲者が出た。
2、ある目的のために大切なものごとや命を差し出すこと
(例)オリンピックでメダルを取るためにぷリベートを犠牲にする。
この投稿では、2つ目の意味について僕が思うことを深く考えてみます。
2の犠牲をわかりやすく言うと、栄光を手にするためには楽しみを引き換えにする必要もある。
その道のりは険しく苦しみを伴うかもしれない。
こんな感じに解釈できるのではないでしょうか。
栄光など簡単に向こうからやっては来ません。
だから、それに対しての手段を講じ、努力に費やす時間が必要になってきます。
今まで普通にあったプライベートの楽しみや習慣を削らないと、そこにはたどり着けないでしょう。
ですから、否応なく1つに特化した過密なスケジュールになるのです。
しかし、犠牲になったものがあると感じていたとしたら、その時点で目指す価値はない。
と僕は思っています。
ナゼなら、引き換えで失うものが耐えがたい苦痛だったら、誰も好んでやりたくはないからです。
栄光、成功、頂点、賞賛 ……。
これらがガマンや苦しみというという犠牲の上に成り立っているというのなら、そのガマンや苦しみは客観的な見方にすぎないでは?
と考えています。
大きな犠牲を払って欲しいものが手にできなかったら、どうなるでしょう?
きっと落胆だけが残ってしまいそうです。
栄光を手にした人たちのコメントをよく目にしますが、彼らの多くは栄光への過程をこう述べています。
「周りが言うほどの苦労はしていない」、「辛かったと言う自覚はない」……。
高い志を持って挑む時、人は意外にも何かを犠牲にしているとは感じない。
そして、今までやっていたその他の物事を遠ざけたり捨てるのをためらわない。
むしろ当たり前の行為である。
という気持ちがなければ、目標を達成できないと理解しています。
犠牲はない方がいい。
” 犠牲を犠牲ではない ” と感じられるようになれば、目指した結果がどうであれ心穏やかに高い意識を持って人生を進んでいけるでしょう。
栄光を手にする時
そこに犠牲はない
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